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by revolver0319

標高 大石内蔵助1

雪の上を音も立てずに移動する人影。先頭の男がかぶった左三つ巴の家紋が入った烏帽子が揺れた瞬間、人影が何個かに無駄のない動きで別れた。12月の寒さ厳しい深夜の出来事。
 元禄15年。門が破られると、政治的配慮や、軍事的負い目をものともせずに47人の剣客が江戸は本所、吉良屋敷を襲った。一刻の後には「とったぞー、とったぞー」と言う言葉を合図に、本所屋敷の主人の首が桐の箱に収められ、それを持った47人は明けきらぬ江戸の町を歩く。
 吉良家の親戚筋に当たる武を重んじる伊達家も、本所に住まう幕府の役人も、本来ならばその場で取り押さえるなりするべきであるが黙って見送る。世論の反感を買うことがはっきりしているのだ、好んで悪役に回る者はいない。
 数日後。肥後の国細川家江戸屋敷内。書院作りの客をもてなすその部屋で、丁寧にもてなされ、夕食を終えた大石良雄、通称内蔵助は三方に乗せられた扇子を見て顔色を変えた。その日の朝に幕府より書状で翌日に切腹を申し渡された。
 武士としての仕事をした結果なのだから、自らの命などどうでもよかった、見事腹を切って果てるだけの心積もりはできている。
 身分でいえば大石内蔵助は一介の浪人に過ぎない、本来細川家の座敷に入ることすらできない。その浪人を上座に座らせ土下座で接する細川家家老。
「明日の儀はこちらをお使えいただけますでしょうか」
 そう言って三方を差し出す。
「はて、ご家老様、切腹とはどのような作法で行うのでありましょうか」
 後にこの話は、戦国の世も遠い昔とかした江戸中期の、平和ボケの象徴のように語られた。武士たる者が切腹の作法も知らなかったと。
 これは恐らく面目を潰された幕府
側が言い伝えたものだと考えられる。実際は大石内蔵助を始め、五人の切腹を取り仕切らなければならない細川家が、血や贓物で庭を汚したくないために“扇子腹”で済ませてしまおうとしたことに抗議した言葉である。
 武士の切腹はこの後幕末まであまり見られていない。幕末に“切腹の美学”があった。死をも覚悟の上に本懐を遂げるのであらば、いざ死に行くときは見事に死のうという志だ。
 現実に土佐の武市半平太などは己が腹に脇差を突き刺して横に掻っ捌き、流れ出る腸にかまいもせず引き抜くと、またその上に突き刺して掻っ捌く。これを三度繰り返す三段切りをやって見せ。
「解釈無用」と言って尽きるのである。死に向かう武士とはそのくらいの心持である。47人の剣客たちもそれぞれが腹を切る方法を考えていた。          
それが扇子腹に当てた瞬間に介錯人が首を飛ばすだけで済ませようとするのである「馬鹿にするな」という悔しさもあったであろう。
だが内蔵助も自分たちの無謀が多くの無関係なところにかけた迷惑を知っている。それ以上の文句を言うこともなく口をつぐんだ。
元禄16年2月5日。晴れ渡る冬空の下、3枚引かれた真新しい畳の上で上半身を曝け出し、内蔵助はそっと扇子を腹に当てこの世を去った。
一遍の辞世の句を残して…。

テレビにエンドクレジツトロールが流れ出すと、長浜里香は電話でピザを注文した。      
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# by revolver0319 | 2009-07-07 20:43