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by revolver0319

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寿司と歌舞伎と・・・

「何言ってるのよ。わけわかんない」
 普段は大人しく、慎ましやかだと思っていた彼女が声を荒げて、僕を睨んだ。

 彼女はとても綺麗な顔立ちをしている。小さな顔の中に二重の大きな瞳と、小さな鼻。口は少し大きくそれがエキゾチックな雰囲気を醸し出して、道行く男が振り返るくらいの綺麗さだった。
 僕よりも20も年下の彼女はしっかりとしたこで、まったくたいした収入もなく、ぐうたらと生きている僕のことに文句を言うわけでもなく、彼女の休日に僕がバイクで走りに行ってしまっても怒ることもなかった。

 そんな彼女に「別れよう」と切り出したのは僕だった。他に好きな子が出来たわけでもないし、彼女が嫌になったわけでもない。むしろ、モデル並みのルックスで性格もよく、ウエストも細いのにEカップある胸など文句なしに僕の理想に近かった。

 ただ、まだ20代後半で、明るい未来がいくらでも待っているであろう彼女の将来を、僕というバイクに乗ることしか頭にない男のために、大切な時間を潰してしまうのが申し訳なく思ったから。

 それがたてまえだとしても、結婚する気もないし、真面目に働く気もなく、時間と金があれば日本全国をブラブラ走りたいだけの僕が、最近では旅に出る前に頭の片隅で「彼女にに悪いな」と思ってしまうことが嫌になっただけだった。

 彼女とのセックスを考えると別れるのは躊躇されたが、考えてみるとやはり僕は彼女をそんなふうにしか見ていなかったということだろう。

 だからまったくもって悪いのは僕のほうで、だから睨まれてもしょうがないのだが、僕は睨んだ彼女の目が、亡くなった祖母の、あのときの目にそっくりだと思って、ぞくぞくとしてしまった。

 たぶん小学校低学年のころだ。祖母と歌舞伎を観に行った帰り道だ。もっとも僕は歌舞伎になどはまったく興味がなく、退屈なだけだったが、月に二回は祖母に連れられ、歌舞伎座や国立劇場に行っていたので慣れてもいたが。

 歌舞伎の帰りは銀座で食事をするのだが、いつも行く寿司屋が、不幸事があって閉まっていたので、違う寿司屋に入った。

 初めて入るその店のカウンターで、僕は赤身を、祖母はコハダを頼むと、瞬く間に僕の赤身がづけ台に置かれた。

「ちょっと板さん。うちの孫に妙なもん食べさせるんじゃないよ」
 祖母は家にいるときから常に和服で、背筋がぴんとしていて、とても行儀がよく、今でもよく覚えているのは、とにかく食事の食べ方が綺麗で、その所作にほれぼれとするくらいだった。

 当時は今と違い生物の流通も時間がかかっただろうし、冷蔵庫だってその性能が雲泥の差だろう。寿司などは魚の柵を注文が入ってから切り、握るの当たり前だった。少なくともいつも祖母といく寿司屋はそうしていた。

 その日初めて入ったその寿司屋は、切り分けられていた赤身を握ったのだ。祖母はそれが許せなかったようだ。

 背筋が伸びた祖母の張りのある声に、板前は頭を下げ、マグロの柵を切って握りなおした。
 祖母はにっこりと笑って、寿司を少しつまむと「生意気言って申し訳なかったね」といつの間にか用意していたぽち袋を懐から取り出して、カウンターの中の板前全員に配った。

 何かがあると祖母はぽち袋や祝儀袋をよく出していた。家業が「口入屋」と呼ばれていたが、少し大きな工務店や建設業だと考えてくれればいい。土地を拓くところか解体、新築、内装、庭造りと仕事は多岐にわたり、それぞれの業種の職人が毎朝初台の家に集まり、それぞれの現場を指示するのだが、当時の東京はオリンピックが終わり、少しは落ち着いていたが、それでも建築ラッシュの真っ只中で、毎朝戦争のような状況だった。

 家は平屋の母屋と廊下で繋がった事務所のような建物。中庭は50坪ほどで梅と松が植わっていたのを覚えている。

 事務所の横には100坪ほどの広場があり、そこにトラックが10台ほど止まっていて、朝は職人たちが溢れかえっていた。

 事務所と言っても引き戸の玄関があり、10畳ほどの土間と、20畳ほどの板張りがあり、板張りの真ん中には囲炉裏がある。祖母は毎朝その囲炉裏の前で帳面を見ながら的確に指示を出し、荒々しい職人たちを動かしていた。

 現場仕事が遅くなって、なかなか帰ってこない職人がいると、祖母は事務所の囲炉裏に炭を起こし、そこで酒肴の準備を始める。

 汗を流し泥にまみれた職人が戻ると、酒を振舞い、「今日は呑んで疲れを取っておいで」とぽち袋を渡す。どこかの職人が結婚したり子供が出来たりすると、どこからかそれを聞きつけ、立派な祝儀袋を渡していた。

 うちに出入りする何百人もいる職人で、祖母と直接口を聞けるのはほんの数人だ。いつも板間の囲炉裏に陣取る祖母は職人から見れば、上座の殿様のようなものだろう。その周りには冬でもさらしだけで上半身裸のいかつい男たちがいて、たいていはその男たちが職人の相手をするからだ。

 そんな祖母が直接ぽち袋や祝儀袋を渡すにだから、もらうほうは押戴くという感じだった。

 祖父は僕が覚えている限り、仕事をすることはほとんどなかった。月に数日事務所に顔を見せるだけで、それ以外はぼんやりと庭を見ながら祖母が作った肴で酒をのんだり、土日は背広を着込みハンチングをかぶると、競馬や競輪に出かけていた。

 祖母も祖父も優しかったが、祖母にはどこか恐ろしさがあったので、正直僕は祖父のほうが好きだった。いつもニコニコした好々爺といっ佇まいで、酔った祖父の杯に酒を注ぐと、僕の頭を撫でては小遣いをくれた。

 何でも家は祖父が一代で興したらしいが、あの優しい祖父がよくもこんな荒々しい世界で生き残ったものだと思っていたが、時々朝の事務所に祖父が顔を出すと、怒鳴り叫んで指示を出すさらしの男たちが一斉に緊張したり、いまでもよく覚えているが、僕が小学三年生の春休みのことだ。

 庭で遊んでいると戻るはずもない時間にトラックが戻ってきて、事務所で大声が飛び交った。祖母が慌てて事務所に行くと、どこかの現場で揉め事があったらしく、数人の血だらけの職人が運び込まれ、元気な男たちはツルハシやスコップなどを持ち、仕返しにいくとトラックの荷台に乗り込んだ。

 庭先で酒を飲んでいた祖父は、騒ぎの間に背広に着替えていて、喧騒の事務所にやってくると「車を回してくれ」と静かに言った。

 祖父は週末どこに遊びに行くにもいつもバスや電車を使ったし、祖母も芝居を観に行くときにはたいがいが電車で、時々タクシーを呼ぶ程度だ。

 家にはピカピカの自家用車があったが、それを使うことは滅多になかった。

 荷台で息巻いていた職人たちを事務所の板の間に入れると「おい。準備してやれ」と祖母に命じ、祖母は返事をするわけでもなく、すっと立ち上がると、手伝おうとする家のお手伝いさんを断って、瞬く間に酒肴の準備を整えた。

「ご苦労さま。あとは俺が行くよ」
 祖父がそういうと、誰一人逆らうことなかった。

 数日後の日曜日、喧嘩の相手だった建設会社一同が事務所で土下座していたのは祖母に対してだった。祖父は「松戸で競輪だ」といい朝出かけてしまったらしい。

 祖母は「まあまあ」といい、その日はお手伝いさんに準備させた酒肴でもてなし、帰りには「本当に申し訳なかったね」と30人ほどいた全員に「帰りの電車賃だから」とぽち袋を渡した。

 相手方は頭を下げて断ったが、一度出してしまったものだからと祖母がいうと両手で受け取っていた。

 そのぽち袋が全員に1万円が入っていたと大騒ぎになった。何しろ職人が泥だらけになって働いても日当が二千円の時代だ。相手側が数日後に着物の反物をお返しにと持ってきたが、祖母はがんとして受け取らなかった。

 その会社の職人の家が火事で焼けてしまったと聞いたときにも「お見舞い」と何十万かの見舞金を持たせていたという。

 そんな祖母だ。

 祖母は子供の僕をよく寿司屋や鰻屋、天婦羅屋などに連れて行く。時には神田のやぶそばに行き蕎麦の食べ方をレクチャーされたので、僕は今でも蕎麦の猪口切りができるし、今時のグルメ気取りがバカらしくも見える。

 祖父と祖母には5人の子供がいた。「口入は一代限り」が祖母の口癖で誰にも後を継がせようとせず、子供全員に教育を徹底させた。
 うちの父親は三男で、大学教授になり結婚した。しばらくは初台の家の敷地内にい家を建ててすんでいたが、しばらくすると仕事の都合で神奈川県に家を建てた。

 祖母はそれに激怒した。多摩川の向こう側に住むなんて考えられなかったのだろう「都落ち」と父を罵ったらしい。

 大正生まれの祖母は代々初台で育った。江戸時代から郊外の農地だった初台だが、そこは家康公のお膝元。厳しい年貢を課せられることもなく、先祖たちは平和に暮らしていた。渋谷や千駄ヶ谷と違い武家屋敷もないが、目の前の代々木には旗本の下屋敷が並び、またその旗本たちが地元の百姓に優しかったらしく、そんな時代を知らない祖母でも「薩摩や長州の山猿が」と死ぬまで言い続けたくらいだ。

 自分たちはそんな徳川家の恩に報いなければならないと思い込んでいたのだろう。それは代々江戸の初台を守ることだと思っていた節もあるから、僕の父が神奈川などという田舎に行くことが、心底許せなかったのだろう。

「孫は毎週家に帰すこと」
 という条件でどうにか祖母の怒りは収まったらしい。その結果僕は毎週ひとりで初台に行くことになった。

 僕は中学生になるとグレてしまった。何故かと問われても答えようがないのだが、ともかくグレてみた。
 それでも日曜日には初台の家に行き、祖母と銀座や浅草を歩いた。

 ある日曜日。初台の家の使っていない部屋。何しろ平屋とはいえ初台の家は部屋が20ばかりあった。開かずの間同様の部屋で僕はタバコを一服楽しんでいた。

 するといきなり襖が開き、祖母が立っていたのである。

「何してるんだい」
「えっと・・・。」
「ガキのくせに煙草かい。吸ったってかまわないが、そんなもんは自分の稼ぎでやるもんだよ」
 ぴしゃりと言われた。

 ガキの僕は動揺しながら。
「うるせえばばあ」と言ってしまった。

 そのとき。
 祖母が僕を睨んだ。
 決して怒りの目ではなく、かといって寂しそうと言うわけでもなく、なんだか背中をそっと撫でられたようなゾクッとするような目つきだった。



 まぁ一言でいってしまえば、面倒くさくなって「別れようと」と告げると、大人しくて綺麗な彼女は。
「何言ってるのよ。わけわかんない」
 そういって、あのときの祖母と同じ目をしていた。

 僕は、背中を、そっと撫でられたような、そんな気分で、彼女の、瞳から、目をそらす。


 あの日から初台には毎週通わなくなった。

 最後に祖母と歌舞伎を見たのは僕が高校生のとき。
 国立劇場で尾上菊五郎が十八番の「忠臣仮名書講釈」を演じたときだった。
 その頃には歌舞伎のおもしろさも充分に分かっていた僕は、見せ場の菊五郎に向かって、最高のタイミングで「音羽屋」と掛け声をかけた。
 
 芝居が終わり、劇場を出ようとしたときに「いやーいい掛け声だったね」と年配の方数人に声をかけられると、祖母は誇らしげに。
「うちの孫は小さい頃から歌舞伎を見てるからね」
 と微笑んだ。

 帰り道。銀座まで歩こうと宮城内を抜けるときに、祖母は僕の手を握った。
「何が食べたい」祖母の問いかけに。
「回転寿司ってしってる」と聞いてみた。
 きっと回転寿司なんかに祖母が入ったら大騒ぎになるだろう。
「なんだいそれは」
「いや、いいんだ。なんでもない」僕は祖母の手を強く握って。
「こはだが食べたいな」と呟いた。

 その翌年に祖母はなくなり、初台の家には入りきれないほどの弔問客がやってきて、それぞれが祖母の人柄を語って酒を飲んでいた。



彼女の目を見られない僕は、寿司が食いたいな。
そんなことを考えていた。
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by revolver0319 | 2012-03-08 19:12