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by revolver0319

2007年にかいた小説「汚れた机の上から」1

あまりにもブログ放置しすぎなので過去に書いた小説を。
まぁごちゃごちゃで読みにくいのですが、どうぞ。





 別居して7年になる。
 娘が3歳になったばかりのころ、広い家が急にがらんとし、声が虚しく響いた。響きは一人暮らしになることを知らせる虚しさを帯びていた。それでも、かろうじて出て行った妻子との連絡も、会うこともできた。
 娘はやんちゃで我侭だった。一人娘だ、しらずしらずに甘やかしていたのかもしれない、そんな不安を感じ出したのは幼稚園での娘の様子を聞き知ってからだ。
 初めての運動会のとき、娘はお遊戯を踊った。きっとみんなに合わせることもできずに、ばたばたとして終わってしまうのであろうと思っていた。
 当時流行ったアイドルの歌に合わせ、見たこともない必死な顔で踊り出した。両手を広げ、足を上げて。
 涙が流れた、いつまでも。
いつの間にか隣に妻がいた。彼女も涙を流していた。その日の夜、一人で部屋にいる状況を物凄く後悔した。
 娘も10歳に成長した。小学校4年生。運動会も発表会も出来る限り見に行っている。馬鹿な親はそのたびに泣き続けるのであろうと思っていたが、幼稚園のお遊戯以降は涙を流すこともなかった。親であることに慣れ、冷静に娘を見るようになっていたのであろう。同時に僕は一人で暮らすことにも慣れていた。
 久しぶりに音楽の発表会を観に学校へ行った。いささか二日酔いの気持ち悪い状態で、遅刻しないようにふらふらしながら早めに家を出た。思ったよりも早く着き、小学校の体育館はまだ鍵が閉まっていた。窓から体育館の中を覗き、何か忘れものをしたような気分でいた。
 時間になり開けられた体育館に入る。底冷えがする床、低いバスケットボールのゴール、饐えたような匂い。僕たちの時代と何も変わらぬ空間。
父兄用の椅子に座り、カメラ越しに娘を捜し、友達と何かしら話している娘を見つけたときだ、僕にもあんなふうに話す友達がいたことを思い出した。
 
幼稚園か、あるいはもっと早くから彼とは一緒に遊んでいた。鬼ごっこや缶けりで走り回り、自転車に乗れるようになると近所の公園だけではなく多摩川の土手までがフィールドとなり、とにかく一日中泥だらけになって遊んでいた。
工場の煙突が乱立する街で、好奇心と冒険心を僕と一緒に満たしていた幼馴染。背が小さいが運動神経はずば抜けていて、両親と歳の離れた兄貴がいたマサル君。お母さんの姿は見かけたがお父さんは見たことがなく、近所での評判は悪い家だった。
 僕の家にしてもいつも顔を腫らしている母親と、職人で酒癖の悪い父、自分のことを僕の兄貴だと思い込んでいるぺスという雑種犬、という構成で評判が良いはずもない。金があるときとないときの差が激しく、昨日までは目玉焼きとハンバーグだったのが、今日は鮭の切り身一枚を母親と分ける、そんな生活で、僕もマサル君も「あの子とは遊んではいけない」ランキングのトップクラスであったことは間違いがなかった。もっとも僕たちの街ではそれが普通で、だから自分たちの環境が悪いなどという考えも皆無ではあった。
 独楽を回し、メンコで遊び、どれだけ硬い泥団子が作れるかに情熱のほとんどを注ぎ、駄菓子屋で舌が真っ赤になるお菓子を貪り、犬のウンコに爆竹を仕掛けて回っていた日々。
 夏の暑さに汗を流し、冬の寒さにあかぎれを作り。いくつもの、数え切れないくらい多く季節が巡っていたように思っていたが、今考えるとそれは決して長い年月ではなかった。
 マサル君はいつからか剣道を習っていた。それも相当な実力だったようで、何度か試合を見に行ったことがあり、勝っても負けてもいつでも怒ったような顔をしていた。僕も彼に誘われて習い始めたが、2回だけ行くと辞めてしまった。
 もう一つ、僕たちが夢中になったのは野球だ。貧乏で、新しいおもちゃなど滅多に手に入らなかった僕たちが、二人ともグローブを手に入れられたのは奇跡に近かった。ともかく軟球をどこからかくすねては僕らはキャッチボールをし、透明ランナーと、ピッチャー以外の全守備をぺスに守らせて野球をしていた。小学校2年生になった頃だ。
二人で始めた野球には楽しみばかりではなく苦労も絶えなかった。何せグローブはあるがボールが一つしかない、棒きれのバットで打った打球が、草むらの外野に飛ぶと探し出すのが大変で、優秀な野手であったペスも飽きるとどこかに行ってしまう。ボールがなくなればどんなに緊迫した場面であろうと、試合終了なのである。
 当時軟球は一つ120円くらいだと思う。もちろん買えるわけもない、どうするのかといえば当然盗むしかない。隣町の野球チームの練習場で飛んできたボールを素早く持ち去る。だが向こうのチームも僕たちがボール盗みにきたことを知っているので、作戦は迅速に行わなければならない。少しでも手間取れば掴まって取っ組み合いになる、そうなればどさくさで一つくらいは盗めるが血を見るのは明らか、多勢に無勢だ、やられるのは分り切っている。
 文房具屋にも置いてあったが、店の構造上、そして文房具という誰もが常に万引きの対象としている性質上、店番のおばちゃんの警戒心は並々ならぬものがあり、簡単に作戦は決行できない。
 駄菓子屋にも置かれていた。3つ目まではちょろく盗めたがそれ以降、軟球の箱は子供の手では届かない高さに吊るされてしまっていた。
 それらが全て駄目だとあとは草むらを歩き回りボールを捜す。ペスはそれを命じると本当に嫌そうな顔をして、どこかに逃げ出そうとしていた。不思議とボールよりもカエルやヘビを見つけること多く、それはそれで楽しい時間の始まりで、ヒキガエルを虐殺し、青大将を棒で突付きまわす。遠巻きに見ていたペスは、青大将がグッタリすると近付いてきて得意顔で噛み付いていた。
 どこで、何をするにしてもマサル君となら楽しい遊びになっていた。
 この当時僕らが暮らしていた街は、雑木林が整地されて住宅地に変わり、市の政策なのか公園が多く作られた。何故か新しい公園にはローラースケート場があり、流行っていたときはみんな夢中になっていたが、ローラースケートが廃れるとそこは野球をする場所に変わった。
 公園の真中でスケートコースが丸くあり、その中は芝が引かれた広場。ここでならボールがなくなることも、カエルやヘビに邪魔されることなく野球ができる。しかしこの場所も長くは使えない。上級生の登場で僕らは追い出されてしまうし、一緒に入れてもらうとグローブを取り上げられてしまう。
 公園が駄目だと、建築前の空き地が2番候補であったがここも上級生に取られてしまう。公園は5,6年生が。空き地は4年生が使う、そんな暗黙ルールがあり、結局僕たちは長い草が生い茂り、ボールが見つからなくなる多摩川の土手に追いやられていた。
 ただ一つ変わってきたのは、いつも野球に夢中な僕たちを見ていた同級生が数人加わり、ペスが補欠扱いになり少しはまともな野球に近付いたことだ。
 夕陽が沈んでも誰にも迎えも来ないし、帰りもしない。
 幼い僕たちの熱き野球好きな気持ちが、街での野球場争奪下克上戦争勃発の原因になることにはまだ気付きもしなかった。
僕たちが小学生の頃は一クラス40名ほどで、全学年8組まであった。一学年の総勢が320名、その中の野球好き選抜が僕たちで、本当に毎日野球をしていた。
 集まり始めると続々とやってくるもので、それこそ9人の普通のチームが2つ作れ、ちゃんとした試合ができるときもあった。しかし全員が夢中になれるわけもなく、そのうちに野球場である土手に姿を現さない連中も出てくる。
 こなくなった連中を迎えに行くことがある。大勢でそいつの家に押しかける「○○君あーそーぼ」と大合唱する。呼ばれた奴は当然行きたくない、そんなことは分っている、目的はそいつの道具である。それでは道具だけ貸してくれと言い借りるが、当然返すわけもなく備品となる。もちろん道具を持っていない奴が来なくなっても迎えには行かない。
 思えばそのころから勉強を放棄していたのであろう、僕とマサル君は野球チームの中心的存在となり、3年生になっていた。
 いつもの通り土手に集まり、それでも野球ができる人数ではなく、カエルに爆竹を背負わせるのにも飽き、泥団子潰しゲームに夢中になっていた。
 泥団子とは何か。泥を固めた団子である。それを地面に置き、もう一人の泥団子を上から落とし、割れたほうが負けという実につまらなそうな遊びである。しかし当時は泥質にこだわり、乾燥時間を考え、最強の泥団子作りこそが男の勲章であるくらいに思っていた。
 公式ルールでは直径が5センチほどの団子で統一されていたが、その大きさにするまでが大変なのである。2センチほどの団子を作り、それが完全に乾燥したところで5ミリほど泥を重ねる。それを繰り返し5センチにまでするのである。
 科学的根拠とか水分と土の関係とか、そんなものは一切考えず、そうすれば割れないと思い込んでいたのである。だから、マサル君の家の玄関先にはいつも製作途中の団子がゴロゴロしていて、そんな努力を惜しまなかったからマサル君はいつでも強い団子を持っていた。
 いつの日もそれまでの常識は覆されるものである。ある日僕が一人でいるときに、家の建築現場見学をしていた。もちろん狙いは5寸釘や板の切れ端だ。その日はどうやら土台作りをしているらしく、泥のような物をこねているのである。
「何をしているの」
 3年生の僕はその可愛らしさを全開に質問してみた。
「うるせぇ小僧。あっち行ってろ」
 残念なことに当時の大人たちは子供を可愛がるという習慣がなかった。もっともそんなことを言われていちいち落ち込む子供もいなかったが。当然僕もあっちに行くことなく見学を続けていた。そして発見したのである。こねているのがセメントであり、それは土なんかよりも物凄く硬いことを。
 隙を見てこねられたセメントを盗み出す。あまりを貰うなんていう考えは浮かばないし、余っても絶対にくれなかったと思う、だから盗むしかなかったのである。
 丸めたセメントの表面に泥を付け、僕は最強の団子を作り上げたのである。誰にも負けるわけはない。
 最初に気付いたのはやはりマサル君だった。彼には団子職人としての鋭い眼があったようで、すぐさま僕の団子が普通ではないことを知った。しかし直ぐに口に出すわけではない。皆が帰り二人だけになったときに彼の尋問が始まり、僕は洗いざらい吐かされて、その帰り道にセメントを盗みに行くのである。
 しかしセメントはすぐさま皆に知れてしまい、全員がセメント団子と化し、勝負がつかない面白くない遊びとなり、そのうちに泥団子はやらなくなる「もう団子は卒業だよ」なんていうはずもないが、一つの遊びをしなくなるのは少しだけ成長したということなのかもしれない。
 そんな団子過度期、みんながセメント団子を持っていたときに土手にいた。ボツボツと人数が集まり出し、野球を始めようとすると、最後に来た一人が。
「3丁目の空き地が空いている」
というのである。そこは4年生のホームグラウンドで、草の伸びきった土手に比べたら素晴らしいグラウンドであった。
 当然僕たちは空き地に向ってダッシュした。いつもなら4年生が眼を光らせている場所が空いているのである。外野にボールが飛んでも探さなくて良いのである。
 空き地は本当に誰もいなかった。僕たちにしてみれば初めて人工芝の球場で試合をするようなものである。5人対5人ではあったがそれはいつものことである、いつもより良いプレーが続出するような良い試合をしていた。
 そんなときに4年生軍団が登場した。自分達のグラウンドが無断で使われているのである、当然怒っている。すぐさま明け渡せという要求は当然でもあった。しかし僕たちも白熱の試合途中である、せめて最後まで試合をしたい。そんな理由が通用するはずもない。
「お前らの土地じゃねぇだろう」
 おずおずではあるがマサル君が言い返した。
 ただで済むわけはない。殴られる。そう思った僕は無意識にポケットの中のセメント団子を掴んでいた。そして迫り繰る4年生に投げつけた。もう何が何だか分らなかった、それを合図に皆がセメント団子を投げた。一人3個は持っている、4年生は悲しいかなもう泥団子は卒業している。数人の4年生が泣き出し、血を流した。革命である。
 こうして僕たちは夢にまで見たグラウンドを手に入れたのである。
グラウンドを手にいれたとはいえ、4年生が大人しくしているはずもない。学校の休み時間、最初に呼び出されたのはマサル君と僕だった。もちろん先生に呼び出されて怒られる、などという優しいものではない。呼び出しにきたのは昨日血を流した4年生数人だ。
 学校で呼び出されるとなればこれはもう“体育館裏”と今も昔も変わらない。ここで当然殴られるのであるが、マサル君は何を考えているのか、一発殴られるとすかさず殴り返したのである。
 何も相手は喧嘩を売りに来たのではない“焼きを入れ”にきたのである。しかもこちらは2人、向こうは5人はいたと思う。もうそれは何をされてもしょうがないという、諦めの境地でいるしかない場面だ。そんな状況で殴り返すマサル君。
 もうマサル君に近付くのはやめよう。僕は僕で別の4年生に殴られながらそう誓った。
 殴り返された4年生は当然逆上し、物凄い形相で殴ってくるが、マサル君はその攻撃を避けて殴りつける。単なる喧嘩、しかもマサル君優勢という状況になり、一気に一人の4年生を血祭りに上げて見せた。
 4年生にしてみれば、昨日のお返しに数発殴って謝らせる。そして「あそこの空き地は俺たちのものだから使うな」と約束させる。それだけのことであった。それがどうだ、逆に殴られ一人は泣き出している。その状況を冷静に分析できる者はその場にいるはずもない。
 マサル君はすかさず僕を殴っていた奴を蹴飛ばす。
「やっちゃえシゲちゃん」
 あろうことか僕にまで戦えと言うのである。
 どうするべきか僕が迷う前に勝負は付いていた。4年生はもう完全に怖気づいていた。
マサル君は昨日の戦いから、4年生はおそるに足らずという見解でいたようである。
「あそこの空き地は早い者勝ちだ、先に取ったほうが使う」
 マサル君は宣言して、泣きそうな僕の手を引いて歩き出した。
 一生マサル君に付いていこう。僕はそう誓っていた。
マサル君の宣言は町を揺らした。
 僕たちにグラウンドを取られた4年生は、公園に進出したのである。緊張感はあるけれど平和が保たれていた国際社会で、急に国境に軍隊を配置した。僕たちがやったことは、どうやらそんなことらしく一気に緊張の糸が切れ、「早い者勝ち」ルールを誰もが主張し始めた。
 革命が成功したのである。
 それでも黙っていない6年生の存在もあった。しかしそこで一つの奇跡がおこったのである。
 
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by revolver0319 | 2012-10-15 19:21